
万葉集は飛鳥、奈良時代から平安時代にかけ成立した短歌集です。
日本各地にて詠われ、大伴家持、柿本人麻呂など数多くの歌人が詠いました。
志摩は「御食つ国」(みけつくに)と呼ばれ、万葉集にも幾つか詠われています。
万葉集は4516もの歌の数に及びます。歌われた地域は全国つづ浦々に及び、飛鳥、奈良、平安時代に郷が有ったところなど数多くの場所で歌われています。
特に伊勢志摩を題材にした物は30首以上、伊勢志摩の産品などを題材にした物、それらを入れた場合、膨大な数に及びます。当時の志摩には複数の郷があり、その殆どで幾つかの歌が詠われているようです。
ここでは志摩市、特に大王町を中心とした地域で詠われた物、産品を題材にした物と思われる物を御紹介します。
万葉集の時代、飛鳥時代には「志摩国志摩郡魚切里」または「志摩国伊雑郷魚切里」という長屋王邸宅跡から発見された木簡に見ることが出来ます。少し下って奈良時代には「志摩国英虞郡名錐郷」、平安後期の吾妻鏡には「志摩国英虞郡菜切郷」と記されています。
万葉集の時代の木簡には、税を納めた人の名として大伴部氏の名が記されています。
大伴部氏は地方豪族の中でも有力な豪族の一つで、ヤマトタケルの神話にも登場し、タケルが、姉の倭姫命を頼り伊勢を訪れた際、タケルと一緒に東国遠征へと付いていく一族です。
また、志摩国の国司は伊勢国の国司が兼務しており、大伴家持も一時勤めていたそうです。
万葉集にて詠われた地域はここと確定できる物はかなり数が限られています。しかし、歌の内容、方言やその時代の産品、地名などから場所を特定することができます。
例えば、志摩と特定する場合、「志摩」以外では「伊勢」とその産品などでも志摩と区別する事が出来ます。
一例を挙げれば「伊勢の島津」で「伊勢の志摩の海」という意味になります。「島」は「志摩」の古名で「津」が「海」という意味です。歌はこの後「鮑玉」という具合に続いてきます。「鮑玉」とは鮑から獲れた真珠の事で、当時の波切の産品として長屋王の邸宅跡の木簡からも伺うことが出来るわけです。
伊勢湾では鮑や海松(みる)は産していませんから、「伊勢」と「鮑」または「海松」を合わせた歌は志摩の歌と言うことになります。また、海松は大王町の船越、南伊勢町の船越地域で食されているものです。
大王町以外では同様の物を浜島町の地名に見いだすことが出来ます。伊勢行幸の際、「隠(なばり)の山越えて」という歌があります。翌日は神宮に到達する歌ですが、「なばり」は浜島町南張の古名です。「名張」という説もあるのですが、「沖つ藻の」と海に関する枕詞がでて、海に近いところであると言うことが判ります。南張の山を越えれば伊勢神宮というわけです。
阿胡の行宮で詠った歌に「高見山」が登場する歌が有ります。この歌で「高見山」という名前が付いたと謂われている山ですが、この山、伊勢志摩で見える場所はごく限られています。鳥羽市内では伊勢の山々に遮られ全く見ることが出来ません。市内でも阿児町、磯部町、浜島町や、度会郡南伊勢町以西も近隣の山に遮られています。唯一見ることの出来るのは、阿児町の一部、大王町、志摩町の高台という訳です。この地域、昔の英虞郡に相当します。この高見山が見える場所に「高見」という地名の場所が波切と名田の境界付近に存在します。
「阿」(あ)は強調の意味で「胡」が「波静かな海」という意味。つまり湾を指します。「英虞湾」の地名の由来ともいう物です。
万葉集を研究されている方の手法ですが、方言で歌われた地域を探ると言う方法もあります。
万葉集の多くは行った先々の方言が盛り込まれている事が数多く、その地域の方言で訳すと正しい訳になることが知られています。
この地域では、「なー」を多用したり、「い」を抜いたりします。家持の歌で「志摩の海人ならし」と表現されている歌があります。「ならし」を現代語その物だと「均す」になりますが、これに波切弁の文法を当てはめると、「聞くところによるとあれは志摩の漁師だそうだ」となります。
実は、波切弁。良く聞くとその殆どが万葉言葉でもあります。
たとえば「おおきんな」。この地域以外にも宮崎県等で使用されている代表的な万葉言葉です。さらに、「い」を抜く言葉使いも代表的な万葉言葉の使い方です。例えば、持統天皇の歌の中に「来るらし」と表現されている物があります。これも「い」を抜く言葉使いをしています。
