
巻第六 雑歌 天平十二年十月 独り行宮に残て大伴宿禰家持がよめる歌(奈良時代)。
「御食つ国」は志摩の枕詞で、「志摩の海人ならし」は「聞くところによるとあれは志摩の漁師だそうだ」と言う意味です。実はこれが大王町の方言で、その他の地域に行くと微妙に言葉が替わります。
「ならし」は「聞いたところ何々らしい」という方言で、実際の発音では、「な」が強調されます。大王町や志摩町の海女さん言葉ですね。
実際にこの歌を詠んだのは伊勢国にある行宮(かりみや)で、志摩を想像して読んだものです。
万葉集の時代、志摩国の代名詞ともなった名前です。御食つ国(みけつくに)は御饌つ国とも書きます。
御食つ国は志摩国の他に、伊勢国、摂津国、若狭国などが定められ、天皇(大王)の食卓の食材を集めた地域を指します。
万葉集の詠われた時期は雄略天皇の時代からとも言われています。雄略天皇の時代、つまり古墳時代、権力を振るっていた者の象徴は古墳の形状に見ることが出来ます。当時の志摩国で前方後円墳の有る地域は大王町の泊古墳、塚原古墳の2基のみで膳氏(かしわでし)または国司であった高橋氏の古墳と見られていますが、他の膳氏の古墳から出土した鏡の兄弟鏡が大王町の古墳から出土しています。
膳氏は宮中にて天皇の食材を扱っていた一族です。名錐郷の支村とされる当時の名田(現在の志摩市大王町名田)は膳氏と縁のある地名でもあります。名田は同地の他、若狭国など膳氏に縁のある土地に名付けられ、若狭国では名田庄として残っています。
この様に志摩国でも特に天皇の食材に関係する方の古墳や地名が残っている町でもあります。
志摩市には御食つ国の名残が数多く残されています。地名では、「甲賀」(英虞郡)、「名錐」(英虞郡)、「伊雑」(答志郡)、「神戸」(答志郡)の4つが和名抄に見ることが出来ます。
「甲賀」(こうか)は現在の阿児町甲賀地区。国府はこの北側になります。古地図などでは国府と甲賀を境にして南が英虞郡、北を答志郡としていたようです。「名錐」は大王町一帯。「伊雑」、「神戸」は磯部町一帯と見られています。
志摩市以外では、鳥羽市(答志郡)に「伊可」(石鏡)、「答志」(答志町)、「和具」(答志町)、「馬家」(加茂町)の4郷。その他には南伊勢町(英虞郡)にも郷がありました。
志摩国は最初、一国一郡の志摩郡のみでしたが、養老元年、答志郡と佐芸郡(さきぐん)に分かれていきます。佐芸郡は5年ほどで英虞郡と改称します。当時の地名の名残が、大王町では「崎山」の古名である「佐芸山」に見ることが出来ます。
この時代の名残は、方言にも見るjことができます。
大王町で「あんご」という方言が有ります。伊勢志摩では唯一、大王町のみに残る意方言です。お手伝いをしない人、何もしてくれない人を「あんご」と呼ぶわけですが。「あんご」とは元々仏教用語で、「安居」。つまり、一定期間屋内に閉じこもって修行する期間を指す言葉です。単純に言えば、屋内にいて、農作業などを手伝ってくれない人の蔑称になったわけです。現在は、馬鹿やアホ等と混用されています。
さて、この安居、宮中で行っていたのが膳氏。つまり、大王町の古墳に眠る人たちであったわけです。
この時に、使われる供物を提供した地域が御食つ国と冠されたわけです。
家持が歌を詠んだのは伊勢で内乱があった時期です。この時、志摩を訪れた様です。家持は後に伊勢の国司としても数年間勤務します。当時の志摩国は実質、伊勢国の国司が兼務していた為、家持は事実上の国司というわけです。
家持の時代、この地の税は大伴部氏が管理していました。その木簡が数多く、平城京跡から出土しています。
万葉集の最後に大伴家持の歌で「新しき年の初めの初春の今日降る雪のいや重け吉事」と言う歌があります。この歌の「新しき年の」というフレーズと「吉事」というフレーズの部分。名乗り行事に見ることが出来ます。
その昔、名乗り行事は藤原氏の行事で当時の古文書などには和歌が登場してきます。「藤氏幸い幸い」という藤原氏を讃えるフレーズが志摩市内の歌に見ることができます。新年に際し、この歌を流用したのかも知れません。
なぜ、大王町が藤原氏に関係するかというと、大王町の波切、名田、畔名、阿児町の立神地区は平安時代、青蓮院門跡領でした。青蓮院門跡といえば、藤原定家に代表される冷泉家の領地でもあったわけです。
熊野から志摩に掛けて使用された船です。古くから熊野と交流があったと見られています。
その名残で、志摩市から熊野市にかけて神社などの信仰や民話が酷似しています。
この真熊野船。熊野川を登って十津川村などの内陸部まで運行していったそうです。古くからの海の回廊の船でもあったわけです。
